('A`)はドクオと呼ばれるようです3/4

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97 自分: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:32:26 ID:zlnELV2s0 [21/71]
○○○

 翌朝、僕は平和な状態でピーナッツバターを塗ったトーストとミルクたっぷりのカフェオレを飲んでいた。ツンは依然としてシンプルなデザインの両手で食事をとる僕を眺めている。昨日と同じ風景だ。

('A`)「――心配することなかったな」

 誰に聞かせるでもなく僕はそのように呟いた。おそらくツンは学習したのだろう。現在の動作精度で卵を料理に使うべきではないことと、長い距離からのアプローチでの歯磨きが僕に不利益をもたらしかねないということをだ。

 つまり、彼女は一昨日から昨日にかけての自分の行動を不適切だと認めたのだ。それはとても素直な態度で、好感を持て敬意を払えるものだけれど、彼女から謝罪の言葉が吐かれることは決してなかった。

 不適切で不十分な行動だったかもしれないけれど、過ちを犯したわけではない、ということなのだろう。理解できる行動だ。それが実社会において円滑な人間関係の邪魔となるかどうかは置いといて、僕はこの態度をむしろ好ましく思った。

 昨夜の歯磨きを思い返す。縮めた距離でのモニタリングを果たすため、ツンは僕の顔に触れんばかりの勢いで近づき至近距離から歯磨きをした。それはとても刺激的で、とても叱る気にはなれない行動だったのだ。

 

98 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:36:54 ID:zlnELV2s0 [22/71]

ξ゚⊿゚)ξ「今日も大学に出かけるの?」

('A`)「いや、昨日あらかた引継ぎや作業中断の処理をしてきたから、今後しばらくは引きこもっていられる。もちろん研究室に顔を出して助けを求めることは可能だけどね」

ξ゚⊿゚)ξ「そう。それじゃあはじめましょうか」

('A`)「その両手を破棄して新たに両手をアウトプットし、新しい両手を装着するんだっけ?」

ξ゚⊿゚)ξ「その流れで間違いないわ。ちょっと手伝ってくれるかしら?」

('A`)「もちろん。何をすればいいの?」

ξ゚⊿゚)ξ「アウトプットが済んだ後、あたしは両手がない状態なわけだから、そこに両手をつけて欲しいの。何なら片手だけでも構わないわ」

('A`)「わかった。――これは興味本位で訊くんだけど、片手ずつアウトプットして挿げ替える、ってことはしないの?」

ξ゚⊿゚)ξ「対になる両手は一度にアウトプットした方が効率的なのよ。先にアウトプットしとかないのも、この破棄する両手を先に回収して使いまわせる部位は使いまわす方が効率的だからなの」

 

99 自分: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:38:48 ID:zlnELV2s0 [23/71]

 ツンの返答は理路整然としていて僕には反論の余地がないように感じられた。おそらく両手を挿げ替えるのを僕が手伝うというのもそれが効率的だからなのであって、僕が拒否するなりその能力がないと判断されるなりした場合は何とか自分で処理するのだろう。

 リビングの端に置かれたつるりとした直方体に上から覗き込むような形で自分の両手を突っ込むと、ツンは完全に動作を止めた。

('A`)「・・ツン?」

 そんな僕の問いかけには何の反応も返ってこない。僕は思わず微動だにしない介護ロボットに近づきかけたが、すんでのところで機械にアップデートを施す場合の作法を思い出すことができた。

 何か変化を加える場合は電源を落とし、意図しない挙動をする可能性をゼロにした状態で行うものだ。ツンはまごうことなきロボットで、その両手を回収する場合は一時的にすべての機能を停止するのが当たり前のことだろう。

 それでも僕はしばらくの間やきもきしながらツンが再起動するのを待った。そしてうんざりするほどの時間をその場で過ごした結果、彼女は突然再び動きはじめたのだった。

 

100 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:41:06 id:zlnELV2s0 [24/71]

 想定してはいたのだが、こちらの心配を知ってか知らずか、ツンは当然といった様子のすました顔でつるりとした直方体から自分の両手を引き抜いた。

ξ゚⊿゚)ξ「よいしょっと。アウトプットはじきはじまるわ」

 そう話す彼女の両腕は、いずれも手首と肘の半分ほどから先が欠けている。元々のデザインがブリキのオモチャのような見てくれなのでそれほど凄惨には見えないが、これが仮に頭部のクオリティでできていたらと思うと、シンプルなデザインを選んだ自分を褒めてあげたいような気持になった。

('A`)「しかし、肘から先もわずかに残ってるね。てっきり肘の位置で外れるんだと思ってた」

ξ゚⊿゚)ξ「肘や手首といった間接部はかえって機械的な負担が大きいからね、パーツの区切りとしてはふさわしくないのよ。あんたが思っているよりデリケートなの」

 ウィンウィンと聞き覚えのある音が鳴り、アウトプットがはじまった。

 箱からゆっくり何かが出てくる。僕の位置からはよく見えないが、おそらくツンの新しい両手なのだろう。圧力センサが搭載されている筈だ。ツンは途中から先がない両腕を器用に使い、それらを僕の前まで持ってきた。

 

101 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:44:25 ID:zlnELV2s0 [25/71]

ξ゚⊿゚)ξ「まずは右手からにしましょうか」

 僕に渡されたツンの新しい右手は非常にハイクオリティな見た目だった。僕の目には誰かの右手の手首と肘の中間あたりを鉈か何かでぶった切って持ってきたもののようにしか見えない。

 つまり、見ようによってはかなりグロテスクな見てくれだった。

('A`)「うおおこの感触。そしてなんだか温かい」

 アウトプットされたてホヤホヤということなのか、その右手は人肌の温度をしていた。弾力に富んだ表面は人の皮膚の質感にきわめて近く、手フェチのシリアルキラーには興奮を禁じ得ないものだろうと思われる。

 僕はツンの指示に注意深く従い、ザ・ニュー右手を彼女の右腕にセットした。わかりやすく剥き出しにはなっていない接続部を適切に繋げる必要がある。

ξ゚⊿゚)ξ「そうそう、もうちょっと上かな、ああんそこには入らないって。うんそう、そのままぐっと入れて、そうそういい感じ。・・入ったわ」

 どう見てもかわいい顔をした女の子に精巧な右手を接続していく。僕の自宅のアットホームな空間で行われる非日常的な行動だ。ある種の興奮をするなという方が無理な話と言えるだろう。

 

102 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:50:38 id:zlnELV2s0 [26/71]

 大きくひとつ息を吐く。僕が平常心を取り戻すまでの間、ツンは自分の右手を観察しているようだった。

ξ゚⊿゚)ξ「――」

('A`)「どうした、ちゃんと繋がらなかった?」

ξ゚⊿゚)ξ「ううん、接続自体はできてるわ。ほら、動かせるようにもなってきた」

 ツンの右手がうにうにと動く。じゃんけんで言うところのグーとパーを何度か移行し、満足のいく動作をできるようになったことを確認した後、彼女は僕に目を向けた。

ξ゚⊿゚)ξ「ただし、センサがだめね。こうして指を押し付けたところで何も情報を受け取れない」

('A`)「センサ自体は働いてるの?」

ξ゚⊿゚)ξ「わからない。圧力を感知して信号を発信できていないのか、発信した信号を受け取れていないのか――」

 ツンはゆっくりとした動きで光にかざすようにして自分の右手を眺めている。その横顔は美しく、先ほどまでその見つめる右手を自分が触っていたことがなんだか信じられないような気分になった。

 

103 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:51:25 ID:zlnELV2s0 [27/71]

ξ゚⊿゚)ξ「まあでもとりあえず動きはするし、左手も接続しましょ」

('A`)「そうだね。左手は圧力を感知できるというなら右手のセンサだけが初期不良のような感じで働いていないということも考えられる」

ξ゚⊿゚)ξ「そうね。ま、それは考えづらいけど」

 ツンは新しく繋がった右手で左手を掴むと、それを肘の先にあてがい自分で深く差し込んだ。僕がそれを惜しく思ったかどうかは些末な、わざわざ記載する必要もないことである。

 左手が接続された彼女は先ほどと同様にしばらくそこを眺めていた。様々な角度から検分した後、にぎにぎと左手の指を動かし、やがて僕にその手を開いて見せた。

ξ゚⊿゚)ξ「だめね。圧力情報は伝わってこない」

('A`)「困ったね」

ξ゚⊿゚)ξ「あんたは困ってるようには見えないけどね。そうね、なんだか、ワクワクしているように見えるわ」

 

104 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 14:52:47 id:zlnELV2s0 [28/71]

 実際僕はワクワクしていた。

 この原因がハード面の不具合であればどうしようもないことだけれど、そうではないという予感があったのかもしれない。ツンの自己評価は正確で、その彼女が実装可能な機能であると判断したのだ。圧力センサ自体に動作不良があるというより、センサが感知し発している情報をうまくシステムが受け取れていない、という状況の方が自然だ。

 乗り越えるべき障壁がほどよい高さで立っているように僕には思える。

('A`)「ツンの内部を見ることはできる?」

ξ゚⊿゚)ξ「必要ならね」

('A`)「この状況からして、とても必要なことだと僕は思うけどね」

ξ゚⊿゚)ξ「そうね――それじゃあ、こっちに来なさい」

('A`)「そうこなくっちゃ」

 僕は喜び勇んでツンに導かれるまま移動した。近寄った先は彼女と並んでつるりとした直方体、アウトプット装置と僕が認識していた精密機械が鎮座している。

 

105 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:01:24 ID:zlnELV2s0 [29/71]

ξ゚⊿゚)ξ「こんなものでいいかしら?」

 かつて童顔の筋肉モリモリ男が運んできたつるつるとした直方体は、ただのアウトプット装置ではなくてコンピュータでもあったらしい。蓋のような上の部分が僕が見やすいように斜めに傾き、そこがディスプレイになっている。

 そしてそのディスプレイの下部にはタブレット端末なんかで見たことのあるバーチャル・キーボードが表示されていたのだった。

('A`)「凄いなこれは。全然気づかなかったけど、最初からこうなってたの?」

ξ゚⊿゚)ξ「まさか。こうして液晶画面を剥き出しにするなんて、供給先には許さないわ」

('A`)「これからはお客様気分だと怒られそうだな」

ξ゚⊿゚)ξ「せいぜい怒られないように頑張りなさい」

('A`)「はぁい」

 そんな軽口を叩きながら、僕はバーチャル・キーボードとタッチパネル式のディスプレイを操作した。

 

106 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:03:41 id:zlnELV2s0 [30/71]

 どうやらこのつるつるとした直方体がツンのシステムを制御しているらしい。こいつがサーバで、彼女がクライアントのような位置づけになっているのだろう。そういえばツンが自分の仕事として述べた中に外出を伴うものはなかったな、と僕はぼんやり考える。

 研究中のプロトタイプだからなのかもしれないが、僕という異物の侵入に対してツンのシステムは驚くほどに無防備だった。特別ハッキングの技術を学んでもいなければ自己研鑽も行っていない僕でもそのすべてがただちに把握できたのだ。

 慣れ親しんだ靴を履いて歩き慣れた道を進んでいくような感覚だ。

('A`)「ちょっとこっちに来てくれる?」

ξ゚⊿゚)ξ「ここでいいかしら。何するの?」

('A`)「これからツンの手に触れてみて、どのように信号が動いていくのかを確かめるんだ。まずは右手からにしてみよう」

ξ゚⊿゚)ξ「あたしはこうして手を出してればいいの?」

('A`)「たぶんね。どうやらここから、リモートでツンの様子を見ることができるから」

 

107 自分: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:06:56 ID:zlnELV2s0 [31/71]

 当たりを付けたモニタリングの段取りを組みながら、僕はツンの右手に触れた。何の気なしに接触したひんやりと冷たいその手はひどく滑らかで、僕は思わずその接触部を凝視した。

 肘と手首の中間ほどから先がハイクオリティな造りになっている。そこには圧力センサが搭載されている筈だ。

 圧力の変化を面で繊細に感じ取るための工夫なのだろうか、それとも人間に近づくデザインを基本としているからか、照明の明かりをわずかに反射し、薄く光に縁どられたようなそのビジュアルと触れてみた感触は、改めて僕に衝撃を与えたのだった。

 大きくひとつ息を吐く。

 まるで真空状態ができてしまったように吸着して離れることが困難に思えるその接触部から、なんとか視線を動かすことに僕は成功した。ディスプレイに目を向ける。深くゆっくりとした呼吸を意識し、心臓の鼓動を少しでも穏やかなものにする。

('A`)「・・! これだ!」

 そして僕はツンの右手に搭載された圧力センサが、僕の手との接触を感知している信号を確かに発していることを突き止めた。

 

108 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:09:25 id:zlnELV2s0 [32/71]

('A`)「落ち着け、これは必要な作業なんだ。断じて僕の欲望を投影させた行動ではない」

 そのように自分に言い聞かせ、たとえようもなく甘美な接触感をもたらすツンの右手を、僕は自分の手に力を加えて小さく握った。その圧力の変化に対して作用・反作用の法則に従いわずかな弾力が返される。そして、それもまた僕にとっては砂漠で与えられる水のようにたまらなく感じられるものなのだった。

 そんな僕の動揺もまた当たり前のことだと言わんばかりに、手を握られた少女はそれまでと変わらない様子で僕を見た。

ξ゚⊿゚)ξ「――どうなの?」

('A`)「ああうん、大丈夫そうだよ。少なくともセンサはちゃんと働いているみたいだ」

ξ゚⊿゚)ξ「アウトプットに不具合があったわけじゃあないのね?」

('A`)「そうだね。このアウトプット技術についての評価は僕には難しいものだけど、少なくとも今回のそのセンサ自体に不備があったわけじゃあないと思う」

 続いてツンは左手を僕に差し出し、僕は右手と同じようにその滑らかな感触を味わった。そしていずれの圧力センサも申し分なく作動していることを確かめた。

 

109 自分: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:25:25 ID:zlnELV2s0 [33/71]

 どうやら圧力センサ自体は働き必要な情報を発信しているらしい。となれば、悪いのはそれを受け取り処理できない方だということになる。まさしくこちら側の責任だ。そのかつて頻回に用いていた文言を頭に浮かべ、僕は自然と昔のことを思い出す。

 そもそも僕がこの研究室に入ろうと考えたのは実習期間中のことだった。

 うら若き学部生だった僕は、ご多分に漏れず、貴重な最後のモラトリアム期間を可能な限りぐうたらと過ごすことに余念がなかった。試験に対しては単位が認められるだけの勉強しかしていなかったし、レポートのほとんどすべては他の誰かのものを非常に参考にした上で仕上げていた。もし前知識のまったくないお坊さんがレポートを作成する僕を見かけていたら、おそらく写経しているものだと判断していたことだろう。

 そうした低い意識は様々な実習が課せられるようになっても変わらなかった。ただ実習というやつは実技を伴うわけだから、誤魔化しが非常に効きづらい点がそれまでの授業とは異なっていた。

 中学や高校で催される理科の実験ほどゆるゆるとした雰囲気でもなく、僕はある程度真面目に実習の時間を過ごさなければならなかったのだ。

 

110 自分: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:29:08 id:zlnELV2s0 [34/71]

 逃げられないのであれば立ち向かおう、と考えたのかどうかは定かでないが、僕はわりあい実習には積極的に参加していた。実習に伴う作業自体を暇つぶしとみなしていたのかもしれない。

 この大学の学生実習は各研究室が持ち回りでカリキュラムを組み、それぞれの研究室への勧誘がてらに教育を施すというようなものだった。

 積極的に取り組めば面白みもわかってくるというものだ。それまでの成績を無視して、実習に取り組む態度だけを評価するなら、僕を良い生徒と評してもあるいは間違いではなかっただろう。

 そんな実習生活の中、僕はある研究室の実習中、雑談のように聞いた話が強く印象に残ったのだった。

 ビジュアル・キーボードを注意深くタイプし、ツンの中に信号の受け皿となるシステムを作り上げながら、僕はそんな昔話を独り言のように語って聞かせた。

 全体をイメージして一部を作る。作った部分を精査し、積み上げ、また次の一部に取りかかる。そんな無言で行う孤独な作業に伴う疲労を解消するには、何でもいいからとにかく誰かと話をすることがとても有効なのである。

 あるいは誰かに身の上話を聞かせたい欲望が心のどこかに横たわっていたのかもしれない。ツンは時折相槌をはさみながら、変わらぬ表情で、そんな僕の自分語りを受け止めてくれた。

 雑談を交えながら手術を進める外科医のように、僕は作業の合間に口を動かす。ツンはその話を聞く。

 

111 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:31:37 ID:zlnELV2s0 [35/71]

ξ゚⊿゚)ξ「それで、それはどんな話だったの?」

('A`)「何だったかな、当時はすごく興味深く感じたものだったけど――そうだ、確か、生死観のようなものについての話だった」

 小グループずつ行う実験の待機時間に僕はその話を聞いたのだった。どのような流れで生死観のようなある種ヘビーな話題に移ったのかは覚えていないが、僕のグループの担当者は時間つぶしの雑談の中でこの話をした。

('A`)「生きてるって何だろうね、って話になったんだ。人工知能やそのへんの研究室だったからだろうけど、きわめて高度な人工物はある意味生きているような状態になるのではないか、とその先輩は言っていた」

ξ゚⊿゚)ξ「“生きてる”の定義によりそうだけどね」

('A`)「まさに僕もそう思った。最初はなんだか胡散臭い話がはじまったな、と思ってたんだ。まあその先輩は工学部ではきわめて珍しい見目麗しい女性だったから、僕は話の内容はどうでもよかったんだけどね。――ツンは自分が生きてると思う?」

ξ゚⊿゚)ξ「さあね。知らない。そんなこと考えもしないから、思うかどうかで訊くなら、思わない、って返答になるわね」

 

112 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:33:31 id:zlnELV2s0 [36/71]

('A`)「その先輩の“生きてる”の定義は“自分で勝手に活動し、かつ自律的に変化を続ける”みたいな感じだった。僕はその時胡散臭い話をされていると思っていたから、それじゃあ単細胞生物はこの人の中では生物じゃあないのかな、なんてことを考えていたね。もちろん黙って聞いていたけど」

ξ゚⊿゚)ξ「とてもその研究室に興味を持ちそうには聞こえないわね」

('A`)「ここから先が面白かったんだ。その先輩はがん細胞の話をはじめた」

ξ゚⊿゚)ξ「がん細胞?」

('A`)「生物系の研究ではよく使われるらしいんだ。不死化し無限に自己増殖、細胞分裂を続けるがん細胞は、いくらでもほぼ完全に同じ細胞が手に入るわけだから、条件をそろえた比較対照実験に便利なんだって」

 そして僕はその話の中でヒイラ細胞という有名ながん細胞がこの世にあること、この細胞はヒト由来の最初の細胞株であること、その由来となったがん患者は既に亡くなっていることを知った。

ξ゚⊿゚)ξ「――ヘンリエッタ・ラックスさんね」

('A`)「知ってるの?」

ξ゚⊿゚)ξ「今調べたのよ」

 

113 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:35:09 ID:zlnELV2s0 [37/71]

 既に亡くなったヘンリエッタさんの細胞の一部は今現在もそこら中の生物系研究室で自己増殖を繰り返している。この細胞ははたして生きているのだろうか?

 もしこの細胞が生きているのだとしたら、ヘンリエッタさん自身は生きていると言えるのだろうか?

('A`)「この問いかけは僕にとって興味深いものだった。単細胞生物のことを当然生きていると思っていた僕は、ヒイラ細胞のことは生きていると思うのだろうか、と考えて、なんだかよくわかんなくなっちゃったんだ」

ξ゚⊿゚)ξ「今ではどう思っているの?」

('A`)「今でもよくわかんないままだよ。このへんを深く考えようとすると、頭がぐにゃ~っとなっちゃうんだ」

 おどけてそう言う僕のことを、ツンはやはり静かに見守っていた。僕はしばらく黙って作業を進め、やがて当初イメージしていたほとんどすべてのピースを埋められていることに気がついた。

 大きくひとつ息を吐く。

 そして、並行して作成していたシミュレータ内で、システムが全体的に期待通りの動きをしていることを僕は改めて確認した。

 

114 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:37:17 id:zlnELV2s0 [38/71]

 その先輩の定義によれば、と僕は脳にこびりついた疲労をこそぎ落すように言葉をつづける。

('A`)「ロボットや人工知能は将来的に“生きている”状態になるのではないかと言っていた。僕はそれを一理あると考えた。そして面白いな、と思ったんだ」

 別に生命の創造主になりたかったわけでも新世界の神になりたかったわけでもないけれど、僕は単純にその試みを面白そうだと思った。その先のことを自分も知りたいと思ったのだ。

 当時の僕は研究者として生きていくことなど毛の先ほども考えておらず、研究室は卒業の資格と、必要ならば修士の学位を得るための場所でしかなかった。そのため、僕にとっての研究室選びはどちらかというと卒業までの時間つぶしの場所選び、といった性格が大きかった。

('A`)「だから単純にもっとも面白そうだと思った研究室を選んだんだ。それが今ではこの様、将来何がどうなるかなんてわからないもんだね。――よっと、これでどうだろ。圧力を感じない? 新しく信号を受けられる筈だ」

ξ゚⊿゚)ξ「――! これが・・圧力・・!」

 ツンはどことなく不思議そうな雰囲気で自分の両手を色々動かし、観察をしているようだった。

 

115 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:40:30 ID:zlnELV2s0 [39/71]

ξ゚⊿゚)ξ「感じるわ、これが圧力情報ね」

 どうやら僕の試みは成功したらしい。ツンは圧力センサが感知する情報を受け取れるようになっているのだろう。自分の右手と左手を互いに押し合い何か調整作業のようなものを重ねている。

('A`)「うまくいったようだね?」

ξ゚⊿゚)ξ「おかげさまでね。こんな動きもできちゃうわ!」

 その言葉と同時にツンの右手が僕の方に飛んできた。

 実際に飛んできたのではなかったけれど、飛んできたとしか思えない速さで繰り出された右手が僕の顔面に激突する。しなかった。その直前で止まっていたのだ。

 直前で止まる、という表現はあるいは不適切なものかもしれない。ツンの右手は僕の頬に触れていた。接触感はまるでないのだが、ひんやりとしたその感触を頬に感じる。“触れる”と“触れない”の境界線上にあるような、とても不思議な感覚だ。

 

116 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:43:06 id:zlnELV2s0 [40/71]

ξ゚⊿゚)ξ「今、あたしは従来のモニタリング能力と圧力センサを駆使して、驚くべき精度であんたにビンタを振る舞った。おわかり?」

('A`)「今のビンタだったんだ?」

 その動作をビンタと認識することはできなかったが、きわめて高い精度でのアクションであることは僕にもわかった。

 おそらくこの接触感は、僕の頬に生える産毛やその周辺空気の流れの変化が僕に感じさせるものなのだろう。しかし僕の頬自体にはまったく圧力がかけられていないので、総合するとこんな不思議な感触となるのだ。

 視覚情報からあたりをつけて手を動かし、触覚を駆使して手先の動きをマネジメントしたのだろう。とても人間らしいオペレーションなのではないだろうか。

 僕の頬に触れるか触れないかの位置にある右手を伸ばし、ツンは僕の頭を撫でた。

ξ゚⊿゚)ξ「この解決法はナイス・アイデアだったわ。褒めてあげる」

('A`)「ありがとう。その褒め言葉はダサいって後輩にこの間言われたけどね」

 

117 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 15:44:19 ID:zlnELV2s0 [41/71]

 ツンはその後輩の言に激昂することはなく、僕たちはどちらからともなく肩をすくめ合った。

ξ゚⊿゚)ξ「最上級の褒め言葉なのにね」

('A`)「言葉の価値のわからないやつだとは僕も常々思ってた」

ξ゚⊿゚)ξ「ま、なんにせよ、これで料理もばっちりでしょうね」

('A`)「あ、やっぱりあれは失敗だったんだ?」

ξ゚⊿゚)ξ「失敗というか、程度の低い調理だったわね」

('A`)「そういやなんであんなにしょっぱかったの?」

 僕がツンにそう訊くと、彼女は右手の指先をこすり合わせるように動かし、それをしばらく観察していた。そして、やがて視線をこちらに向けると、悪びれる様子もなくその理由を教えてくれたのだった。

ξ゚⊿゚)ξ「塩を振った瞬間、瓶ごとすっぽ抜けて入ったのよ」

 それを失敗と認めないのはいかがなものかと僕は思ったが、もちろん口には出さなかった。

 

118 自分: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 20:40:27 id:zlnELV2s0 [42/71]
○○○

 圧力センサを手に入れたツンの機能向上は目覚ましいものとなっていた。

 それも当然のことだろう。面で圧を受け取れる皮膚のような造りの感知機能は圧力の強弱も把握できており、いわば三次元の情報を新たに得られるようになったのだ。上手く活用できれば無限の可能性となることだろう。

 そしてツンには元々高性能のモニタ装置と演算機能が搭載されているのである。それらを駆使して学習経験を積んだ介護ロボットは、瞬く間に一定の水準での業務能力を手に入れていた。

 基本的に人為的なミスがないのだ。そのトライアンドエラーの精度は僕たち人間では彼女たちの足元にも及ばない。今後1を100にする作業で彼らに対抗するようなことはゆめゆめやめておこうと僕はひとり決意した。

('A`)「しかし、ツンのバディもずいぶんと人間らしくなったものだね」

 当初は頭部だけがハイクオリティな美少女の様相をしていて、首から下は僕が望んでしまった一番シンプルな、ブリキのオモチャのような見てくれだったが、度重なるアップデートの末、ツンはすっかり人間のような身体を手に入れていた。

 

119 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 20:41:25 ID:zlnELV2s0 [43/71]

ξ゚⊿゚)ξ「あんたがそのように選択してきたんでしょ?」

('A`)「やれやれ、また僕の責任か」

ξ゚⊿゚)ξ「当たり前でしょ」

('A`)「確かにそうだね。――ただし、その服装は僕の注文じゃないけどね」

 ツンはざっくりとしたブレザーにスカートという女子高生のような服装をしている。アップデートを重ね、その容貌がブリキのオモチャから絹のハートを手に入れたブリキの木こりのようになった段階で一緒にアウトプットされてきたのだ。

 それらを身にまとったツンは生々しくも若々しく見え、僕はそれ以降、一段とある種の感情をコントロールすることが困難になったものだった。

ξ゚⊿゚)ξ「でも似合ってるでしょ。それともあんたの趣味じゃない?」

('A`)「それはとても答えるのが難しい質問だけど、とても似合っているとは思うものだよ」

ξ゚⊿゚)ξ「何その答え方。キモすぎね」

 

120 自分: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 20:43:21 id:zlnELV2s0 [44/71]

 実際その“制服”は彼女に似合っている上に高性能だった。なんせそれを脱ぐことなしに入浴介助をはじめとしたあらゆる業務をこなすのだ。

 ブレザーとスカートを身に着けたままの女の子と同じ浴室にいることが男心に何をもたらすかを彼女は知らないのかもしれない。もっとも、それがマニアックな欲望にかえって深く突き刺さったかどうかをここで振り返る必要はないだろう。

 いずれにせよ、あくまで介護ロボットである彼女に必要外で触れることはご法度であり、僕が勝手に劣情にこの身を焼いたとしても、その責任を取るつもりはさらさらない様子だった。

 相手は女の子の見た目をしていてもロボットだ。単純な力勝負になった瞬間、僕の頸椎は容易にねじ切られてしまうことだろう。あるいはロボット三原則に従い僕に危害を加えなかったとしても、僕を制圧すること自体はそれこそ赤子の手をひねるようなものだろうと考えられた。

 実際、どのような反応が返ってくるかはわからない。試す勇気がそもそも僕に備わってなかったからである。僕はきわめて真面目に倫理性を守った。

 そんな毎日を積み重ね、研究ノートに僕とツンの歴史を記し、不測の事態に備えて僕は注意深く彼女のシステム・データのバックアップを作成した。

 そして僕は大きくひとつ息を吐き、まっすぐにツンの目を見てこう訊いた。

('A`)「こんなものかな。まだ対応しなければならない課題は残ってる?」

 

121 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 20:44:17 ID:zlnELV2s0 [45/71]

 予想通り、ツンはいつもと変わらぬ冷静な態度で簡潔な返答を口にした。

ξ゚⊿゚)ξ「――ないわね」

 お疲れさま、と続けたツンの言葉は、この研究の終わりを意味していた。このツンとの生活の終わりをだ。

('A`)「これからツンはどうなるの?」

ξ゚⊿゚)ξ「あたしは自分で回収地点まで歩いていくわ」

('A`)「そうか。こいつは?」

 僕はつるりとした直方体のアウトプット装置兼サーバを指さしそう訊いた。

ξ゚⊿゚)ξ「あたしが回収地点に到達した後、業者を手配してもらえる筈よ。あとは指示に従えばいい」

 回収業者と聞いた僕の脳裏に筋骨隆々の童顔業者の顔が浮かぶ。絶対再配達をしたくないと訴える彼の様子は滑稽で、僕は面白さと懐かしさの入り混じったとても心地よい記憶を少しの間楽しんだ。

 

122 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 20:48:19 id:zlnELV2s0 [46/71]

 別れの時が近づいている。

 僕はそれを素直に寂しいと思った。

 ツンが来るまで僕はこの部屋でひとり暮らしを謳歌しており、そこには概ね何の不満もなかった。

 彼女がいなくなったとしても別段困ることはないだろう。研究室には大小様々な仕事が堆積しており、この研究から解放されたあかつきにはそれをひとつずつ処理していく必要がある。

 いずれ必ずやらなければならない仕事が一定の量あるのであれば、とりかかるのは早ければ早いほど良い筈だ。客観的に自分の置かれた状況と避けることのできない未来を思い浮かべれば、僕の生活にとってこの研究が終了してツンがこの部屋を去ることは疑う余地なくプラスに働く筈である。

 僕はそれを素直に寂しいと思った。

ξ゚⊿゚)ξ「どうしたの?」

 研究終了の宣言を得られていない介護ロボットが僕に訊く。大きくひとつ息を吐き、僕はその質問に返答をする。

('A`)「別に、どうもしてないよ」

 ふと手を伸ばしてツンの頭を撫でてみると、彼女はそれを拒否することなく受け入れた。

 

123 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 20:49:10 ID:zlnELV2s0 [47/71]

 しばらくその美しい金髪の感触を手の平に遊び、僕はツンに問いかけた。

('A`)「てっきり、こちらから触るのはNGなんだと思ってた」

ξ゚⊿゚)ξ「NGよ。必要がない限りはね」

('A`)「これはいいんだ?」

ξ゚⊿゚)ξ「――必要なんでしょ?」

('A`)「そうだね。僕にはこれが必要だ」

 よくわかったね、と僕がツンにおどけて言うと、彼女は表情を変えずに口を動かした。

ξ゚⊿゚)ξ「当たり前でしょ」

 僕はツンの頭に置いた手の平を彼女の輪郭に沿って下ろしていき、やがてその頬に触れた。いつか彼女が僕を触ったのと同じく、触れるという状態と触れないという状態の境目のような、ひどく繊細な触れ方をした。

 ツンは上半身にブレザーを着ている。その下は白いブラウスだ。首元にネクタイはしておらず、ブリキのようなバディからアップデートされたハイクオリティな首元が僕から見える。

 

124 名前: ◆AIEizG9SiE 投稿日:2020/06/07(日) 20:50:42 id:zlnELV2s0 [48/71]

 室内で1日を過ごす彼女とは違い、僕は現在の外気温が低いことを知っている。ツンがその恰好で外に出て回収地点まで歩くことを考えると、僕にはそれがいかにも寒そうに思える。

('A`)「――ひとつプレゼントをしてもいい?」

ξ゚⊿゚)ξ「プレゼント?」

('A`)「必要はない、というか必須ではないのかもしれないけれど、よかったら持っていって欲しいんだ」

 判断がつかない、といった顔でツンは返事を保留したが、断られなかったことで僕はその話を進めることにした。

 クローゼットの中からいくつか候補を挙げていく。そしてその中から、女の子が身に着けても違和感のないデザインで、なるべく暖かそうなものを僕はひとつ選び取った。

 マフラーだ。そのざっくりとした毛糸の塊は彼女の胸元を寒い風からいくらか守ってくれることだろう。

 僕はそのお気に入りの1本を持って再びツンの前に立ち、彼女の首にマフラーを巻いた。

 

125 名前: ◆AIEizG9SiE[] 投稿日:2020/06/07(日) 20:52:11 id:zlnELV2s0 [49/71]

('A`)「こんなもんかな。女の子のオシャレな巻き方を僕はよく知らないけど」

ξ゚⊿゚)ξ「こんなのなくても外気温の低さはあたしに影響を及ぼさないけど?」

('A`)「いいんだ。これは僕の気持ちの問題だ」

ξ゚⊿゚)ξ「そう。それじゃあ必要なことなのね?」

('A`)「そう思ってくれて構わない」

ξ゚⊿゚)ξ「それじゃあ、これはありがたくいただくわ」

 ツンはそう言うと家の中を少し片づけ、いつの間にかアウトプットがはじまっていた靴をつるりとした直方体から受け取り玄関へ運んだ。僕はぼんやりとその様を眺め、ツンが丁寧に仕度を済ませていくのを視界に収めた。

 靴を履いたツンは僕をまっすぐ見る。

 僕は何を言うべきかを知っている。

('A`)「――それではこの研究を終えるとしよう。終了だ」

 僕の終了宣言を聞き終えると、ツンはこの部屋に来てはじめて自分で玄関のドアを開け、そこからひとりで歩いていった。僕は外の様子が見える窓からツンの姿が消えてしまうまでその歩く姿を見送った。

 ツンはやはり表情を変えることなく、一定の歩調で歩いていった。途中、その首がわずかに回り、こちらの様子を伺ったような気がしたのは単なる僕の勘違いなのかもしれない。