【曲解】『うで』のショボンについて考える

 

 今回取り上げるのは『ブーン系秋の短編祭2021』から、通称『うで』。

 『うで』のショボンについて勝手に色々考えてみようと思います。たくさんネタバレすると思いますので読んでから読んでくださいね。

 

「見せてようですこしだけ」 - Boon's Beautiful Harmony

https://reiwaboonnovels.fc2.net/blog-entry-447.html

 

 読みましたね?

 それでは書いていきましょう。

 

 

―――



 『うで』は主人公ショボンの1人称で語られるお話で、主だった登場人物はショボンの他にはハローさんと、あとはせいぜいモララーくらいです。

 一応簡単にショボンの紹介をしておくと、自分の能力や家庭環境に恵まれていることを自覚している、ちょっとスレたような感じのする、グロ好きな小学生の男の子です。実際恵まれているのでしょう。自分のグロ好きを「僕はちょっぴり変わってる」くらいに捉えています。

 そして、曲解であることを恐れずに言えば、実はそれほど自分に自信がない人間であるように感じられます。いわゆる『普通』と比べて自分が恵まれていることを自覚していて、自分が『普通』と比べて優れていると考えているにも関わらず、そこに確固たるアイデンティティのようなものを確立するには至っていない。そんな子供のように僕には見えます。

 

 たとえば3レス目あたりから描写されるモララーへの態度。

 モララースクールカースト最上位の人間として描かれているのですが、特に7レス目のモララーとショボンのやり取りは印象的で、

 

<引用>

 

( ・∀・)「あーマジ楽しかったぁ~ショボン家良いなぁ、ゲームメッチャあんの」

 

(´・ω・`)「また遊びに来てよ。1人でやるよりモララーと対戦する方が楽しいからさ」

 

( ・∀・)「おー、また明日くるわぁ。じゃーな、明日こそ勝つ!」

 

</引用>

 

 こんな会話をしています。

 意図があって前置きをした上で話すのでない限り、自然な会話は1.まず言いたいことを言って→2.その理由づけや解説をする、という順序になるものです。たぶん。「抽象から具体」みたいな言い方をする人もいますね。

 それでまあこれをこのショボンの台詞に当てはめると、こいつはまず何より1.モララーにまた遊びに来て欲しくて、その理由づけとして2.ひとりでやるより対戦の方がゲームが楽しいから、という順序になっているわけですね。

 純粋にショボンがモララーと遊べて楽しいだけなら、

 

(´・ω・`)「確かに楽かったね~ でも、ひとりでやってもこんなに盛り上がらないよ、やっぱ対戦だからかな。対戦したいし、よかったらまた遊びにおいでよ」

 

 みたいな台詞運びにするか、モララーの方から「また来ていいか?」と訊かせてショボンが「もちろん。ひとりでやるより~」と受諾する、といった流れにおれならします。

 もちろん何も考えずにただモララーと遊べて楽しく、また遊びたいなとまず口にしたのかもしれませんが、ショボンは客観的に自分を見られる(と自分で考えている)人間の筈なので、だったら後で自分のモララーへの振る舞いに対して何か思うところがあるんじゃないかと思うわけです。

 『リア充とキョロ充』のような、ひと昔前のカテゴリを使うなら、モララーリア充として、ショボンはキョロ充として描写されているわけですね。

 

 そんなショボンと比べて、「また来てよ」と言われたモララーの、何の躊躇もなしに「また来るわ」と答え、特に感謝の言葉も吐かない態度もまた印象的です。それはとても自然な振る舞いであり、モララーにはショボンのことを軽んじるような意図は欠片ほどもないのでしょう。

 そしてショボンはモララーへ媚びたように見えかねない態度を取ることに忌避感がありません。自覚さえできない。このふたりの関係性は面白いところです。

 ハローさんへの態度もそうだと思うのですが、ショボンは基本的にギブ・アンド・テイクでものを考える人間なのだと思うのです。等価交換的というか、これこれこういうことをしてやったんだからこのくらいのことはしてもらってもいいんじゃないかとか、そういうことを考えがち。

 対してモララーはきっと「惜しみなく与え、惜しみなくもらう」みたいな接し方をする人間なのでしょう。与えるものが自然と自分や周りに溢れている種類の人間は、世間に揉まれるまで、無邪気にそういう振る舞いをするのもある種当然なのだと思います。

 では、自分の能力にも周囲の環境にも恵まれている筈のショボンが、何故そういう行動原理や人間性になっていないのか?

 もちろんこれはこうした単純な2元論で語られることではなく、グラデーションなのだと思いますが、それにしてもショボンのこのバランスがどうやって形成されてきたのかという歴史は興味深いところです。

 

 さて、8レス目くらいからはショボンのハローさんへ対するアプローチが始まります。つまらない田舎の中で、胸が高鳴る面白いことを発見したわけですね。最初から語られていたショボンのちょっぴり変わった趣向、グロ好きの一面が、ハローさんのひどいことになっているのだろう腕を見てみたいという欲求に繋がります。

 注目すべきは、この趣向はショボンにとってコンプレックスではなく、どちらかというとアイデンティティ選民思想のようなものに結びついているらしいところです。抑圧すべきと考えていて、頑張って抑え込んでいるのに溢れてしまう、という様子ではない。

 にも関わらず、これまで『本物は見たことがない』というのがショボンの面白いところです。

 

 僕が気づいた範囲では明記されてないので真偽のほどは定かでありませんが、ひょっとしたら、ショボンは動物や虫といったレベルでもこうしたグロテスクな方面の行為をほとんどしたことがないのかもしれません。

 ショボンの語る『本物』のグロとはどの程度のレベルなのか?

 参考となる記載は24レス目にあって、そこには、

 

<引用>

 

たくさんたくさん見てきた。ネットで色んなサイトやブログを見た。そういう集まりだって、中学生になったら行きたいと思ってる。

それくらい好きだ。ワクワクする。僕は普通じゃないから。変態なんだ。だから大丈夫。どんな傷だって大丈夫。

 

</引用>

 

 と書かれています。

 ここからは好んでネットで閲覧しているレベルであることが察せられます。少なくとも動物虐待のようなことを行った経験があるならこのへんの一人称地の文には書かれていそうなものです。

 つまり、ショボンはグロ好きを自認しているけれど、グロ耐性は元々ほとんどないのでしょう。

 だからハローさんの腕を見た時まったく耐えられずハローさんの自殺に繋がる例の暴言を吐くことになったのだとしたら、初見で「グロ好きのくせに大げさなんじゃないか?」とうっすら思ったあの反応も、とてもありそうなものに感じられます。

 

 さて、そんなショボンの趣向がこの一件の後どう変わったかというと、明記されていないのでわかりません。

 ただ察することはできて、最後の32レス目ではハローさん自殺のニュースを知ったショボンは「何とも思わなかった」、「もしかしたら少しだけ普通の人間なのかもしれない」、そして「田舎の臭いには少しだけ慣れてしまった」というように地の文で語っています。ここからはショボンがグロ趣味から足を洗っている様子が見て取れます。だってすぐそこに自殺現場と、ひょっとしたらその痕跡やら何やらがあるにも関わらず「何とも思わなかった」わけですからね。

 それどころか「あの生ゴミの臭いはもう忘れた」という一文からは、足を洗ったというより、ショボンはこの一件とそれまでのことをすべて忘れようとしているようにも読み取れます。

 ただし、仮にそうだとしても、完全に忘れることなどショボンにはおそらくできていないのでしょう。田舎の臭いにも「慣れてしまった」なんて言い方をしていますしね。

 

 散々ネットで色々見てきた筈の自分にグロ耐性がまるでなかったことにショボンは深く絶望したのかもしれませんし、意識しないようにしてもハローさんの自殺に対する罪の意識のようなものがひょっこりと頭を覗かせる日があるのかもしれません。自分がハローさんに渡したマフラーの行く末を誰かに何か訊かれることを思い描いては汗をかく夜もあるでしょう。

 ショボンはそれらすべてをそれまでのグロ趣味と共に記憶の底に封印し、ひょっとしたら自分の趣向が封印できる程度のものであったことに驚いたのかもしれません。

 そんなことを考えると、「何にも面白いことのない毎日が過ぎて行く。」という一文が非常に味わい深く感じられます。

 ショボンにとっての田舎の特徴は「面白いことがなく」て、「平和」だった筈です。

 もう平和ではないんですかね?

 『うで』に描かれたショボンの人間性はこの他にも色々興味深いところがあって、それはたとえば「客観的にものを見られる人間ぶってるくせに一人称で書かれる描写や思考内容が非常に自己中心的で不完全」とかになるわけですが、あまりに冗長になるのでこのくらいにしておきます。もう4000字くらいになるし。

 

 と、なんだか自覚していないコンプレックスがたくさんありそうなショボンくんには是非今後の人生を幸せに歩んでいって欲しいものですね。

 おしまい。