運命に抗う話

 この二日ほどはどろどろに酔っ払ったこととその後遺症により終わりを知らない苦しみに苛まれておりました。この苦痛を癒すのはただ水と睡眠をおいてほかにない、といったような状況であり、傷ついた動物のようにねぐらでひっそりとそれが癒えるのを待っていました。

 止まない雨はないじゃない! ということでずいぶん楽チンになってきたのでこれから昨日やるはずだった実験と今日やる予定の実験をこなしに研究室に向かうところなのですが、そういえば私の作る物語の根底にはだいたいこいつが横たわっているなあといったところに改めて思いあたりましたので、以前どこかで書いたことや話したこともあるかもしれませんが、再び書こうと思います。

 

 この記事の題名にもなっておりますが、私は運命に抗う話が好きなのです。運命とは偶然性と言い換えても良いと思います。私は理屈好きであり、同じように自分なりの論理やセオリーを大事にするような人が好きです。

 彼らは自分の理屈でもって運命や偶然性に立ち向かおうとします。しかし確率は残酷なほどに理にかなっている方を選ぶとは限りません。私はそこにとても大きな面白みを感じるのです。

 だから私はサッカーが好きです。サッカーは足でボールを扱うためミスすることを前提としなければならない偶然性の高い競技です。バスケットボールとサッカーは本質的に似ている部分が大きいと思うのですが、私はサッカーの方により面白みを感じます。

 私は偶然性を考えるとき、どうしてもそこに神のようなものの存在を思ってしまいます。50%という確率がもっともそうだと思うのですが、どちらに転んでもおかしくないのにその目が出るのはなぜなのか、と思うわけです。

「なぜって、そんなものに理由はないよ」

 と言われたところで、何もないということはこちらもわかっているのだという話になります。そして、何かがあるよりも何もない方が妄想の余地を多く残しているものだなと思います。

 私は理屈やセオリーが好きなので、その通りにことが運ぶと嬉しくなります。しかし、何かしらの理由によってそうはならないことが多々あります。それならそういうところも含めた理屈やセオリーを作ればよろしいということで、より優れたものを作ろうとします。この一連の流れを何度も繰り返し、自分に考えられるもっとも優れた理論を打ち立てることになります。

 しかし完全な理論などこの世に存在しないので、それもいつかはぶっ壊されることとなるわけです。

 その当事者となるのは私は嫌ですが、傍観者としてはそういうところにもっとも魅力を感じます。

 随筆で書いたのでまとまっていなかったり言ってることが変わってたりする気もしますが、面倒くさいのでこのままで。私は実験をしなければなりません。